ローラーホッケーセクションの歴史

FCバルセロナのローラーホッケーセクションは1942年6月1日に創設されましたが、プレーするコートが見つからないという理由で1年後に解散しました。

ローラーホッケーが再登場したのは、ちょうどクラブがグラン・ビアのアリーナを借り上げた1948年のことでした。 その後の数年間から1960年代初頭まで、ローラーホッケーチームは常に国内タイトル争いに加わっていました。 しかし1963年、クラブが他のセクションのために予算を削減した結果として危機に陥り、これが7年間続きました。


黄金時代

1970年、元選手のジョセップ・ロレンテがFCバルセロナの技術委員となりました。 ベンチにロレンテが控えるバルサチームは、大幅な再構築を行い、すぐにその成果が表れました。 1972年から1987年まで、ローラーホッケーチームは、1975-76を除き毎シーズン何らかのタイトルを獲得します。 しかし、これは黄金時代の始まりにすぎず、そのピークを迎えた1977-78シーズンには、国内外で行われた大会のほぼすべてで優勝を果たしました。 ローラーホッケーセクションは、ヨーロピアンカップを10回制覇していますが、そのうち8回は1978年から1985年にかけてのものです。


変化と遠ざかったタイトル

この好調期は1987年に終わりを告げます。ベテラン選手に取って代わる新世代がいなかっただけでなく、ライバルチームが精力的な強化を図っていたからです。 状況が悪化した1987-88シーズン、ジョセップ・ロレンテはチームの監督を辞任します。 彼は、 17年間で39タイトルという見事な遺産を残しました。 そして、彼の後を追うように何人かの選手が退団。ジョルディ・ビラプイグは引退し、ジョセップ・E・トルネロとジョアン・トルネルはノイアと契約、ジョアン・カルレスはイグアラダに移籍しました。 FCバルセロナは主要タイトルから5年間遠ざかり、1993-94シーズンにようやくラ・コルーニャのリセオを決勝で下して国王杯を獲得しました。


カルロス・フィゲロアの下で復活

その1年後、ホセ・ルイス・パエスとロベルト・ロルダンが移籍してきます。 シーズンの終わりには、カルロス・フィゲロアが監督として、ダビド・ガバルドンとカルロス・フォルゲラが選手として加入ました。 このような補強の結果、バルサは再びあらゆる大会で優勝候補の一番手となりました。 そして、チームはこの大きな期待に応えて、1995-96シーズンにリーグを制覇します。 翌シーズンも好成績は続き、バルサはヨーロピアンチャンピオンに返り咲きました。 1997-98シーズンにはリーグとヨーロピアンスーパーカップで優勝し、南米チャンピオンUVTと対戦した第1回インターコンチネンタルカップを制します。

クラブ創設100周年にあたる1998-99シーズンは、ローラーホッケーを含めたすべてのプロチームがそれぞれのリーグで優勝を果たしました。 その翌年も好調で、イベリアンカップで初優勝すると、国王杯、リーグ、ヨーロピアンリーグを制しました。 2000-01もタイトルラッシュのシーズンで、リーグ、ヨーロピアンリーグ、ヨーロピアンスーパーカップ、イベリアンリーグで優勝しています。


キム・パウルス監督着任

ホッケーにとって重要な時期となった2003-04シーズンに、ガビー・カイロが引退しました。 間もなく、監督としての最終年にあらゆるタイトルを総なめにしたカルロス・フィゲロアも引退。 2005/2006シーズンにフィゲロアの後任となったキム・パウルスは元選手で、何らかの形で常日頃からホッケーセクションとのつながりを持っていました。 パウルスがチームを率いた4年間もトロフィー獲得は続き、 OKリーグ優勝4回、ヨーロピアンリーグ優勝2回、インターコンチネンタルカップ優勝2回、スペインスーパーカップ優勝3回、コンチネンタルカップ優勝4回、国王杯優勝1回、CERSカップ優勝1回と、その成績は目を見張るものでした。

2009-10シーズン、キム・パウルスは、かつてフェラン・プハルテにその座を譲ったセクションの技術委員の職に戻りました。 技術委員は何よりも成功が求められる仕事です。最終的に、チームはリーグ13連覇を達成しました。

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