FCバルセロナの歴史

FCバルセロナの歴史

FCバルセロナの会長

1899年以降、FCバルセロナを率いてきた会長の歴史を振り返る。
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ジョアン・ラポルタ・イ・エストルッチ (2021-)

2010年に会長任期を終え、2015年の選挙で立候補した後、2021年3月7日に、新型コロナウイルスの影響下に行われた選挙戦で、投票した55.611人のソシオの54,28% に相当する30184票を獲得し、改めて当選した。2021年3月17日、正式に会長に就任。

管理委員会(2020年-2021年)

理事会の退任に伴い、公式に10月27日に経済管理委員会会長のカルラス・トゥスケッツが、クラブの管理委員会会長を負うことになった。選挙戦は、当初は2021年1月24日に予定されていたが、新型コロナウイルスの影響を受けて、3月7日に延期された。それから10日後、管理委員会は、ジョアン・ラポルタに理事会を引き継ぐことにより、その役割を止めることになった。

ジョセップ・マリア・バルトメウ (2014-2020)

2014年1月23日、サンドロ・ロセイが3年半務めていた会長職を辞任したのを受けて、当時、スポーツ副会長だったジョセップ・マリア・バルトメウが会長職を担い、その後、選挙戦を経て当選。 2015年6月18日に発足した幹部と共に会長として任務を果たし、2020年10月27日に、理事会と共に退任し、管理委員会に受け渡した。

サンドロ・ロセル・イ・フェリウ(2010-2014)

サンドロ・ロセイは、2010年7月1日に会長の責務についた。6月13日に行われた会長選では、全体の61,35%に当たる57088票を獲得し、圧勝した。

ジョアン・ラポルタ・イ・エストルッチ (2003-10年)

ジョアン・ラポルタ・イ・エストルッチ (1962年バルセロナ生)は、2003年6月15日の会長選挙選で圧勝して会長に選ばれた。獲得票は27138(全体の52,7%)で、もう一人の候補者、 ルイス・バサットの16412票を大きく上回った。

管理委員会(2006年)

ジョアン・ラポルタによって招集された幹部は、司法判決により、2006年6月30日にその効力を失うと評決が出されたため、バルサ幹部は辞任し、管理委員会(暫定的にクラブを管理する委員会)が発足した。

5月6日に、エンリック・レイナが率いる幹部陣が総辞職した後、法廷経済院会会長による内部総務委員会が、クラブの内規法に基づき、処務を引き継いだ。委員会は、15人のメンバーで構成され、6月15日の選挙戦が終了するまで、クラブを収めた。

エンリック・レイナ・イ・マルティネス(2003年)

エンリック・レイナイ・マルティネスは、ジョアン・ガスパルトがリコールされ、会長職を追われた後、2003年2月12日に会長職についた。

ジョアン・ガスパルト・イ・ソルベス (2000-2003年)

ジョアン・ガスパルト・イ・ソルベスは、非常に高い投票率の選挙戦を経て(45888票が投じられ、ほぼ半数に投票権があった)、2000年7月23日に会長職についた。

ジョセップ・リュイス・ヌニェス (1978-2000年)

1978年5月6日、ジョセップ・リュイス・ヌニェス (1931年バラカルド生)は、僅差で会長選に勝った。

ライモン・カラスコ・イ・アセマール(1977-1978年)

彼は、市民戦争の最中にフランコに銃殺された民主政治家、マヌエル・カラスコ・イ・フォルミゲラの息子であった。

アグスティ・モンタル・イ・コスタ (1969-1977年)

アグスティ・モンタル・イ・コスタ(1934年 バルセロナ生)は、アグスティ・モンタル・イ・ガロバルトの息子であり、カレラスの元で副会長として勤めていたが、カレラスの退任を受けて、会長職につくことに決めた。

ナルシス・デ・カレラス (1968-1969年)

ナルシス・デ・カレラス(ラ・ビスバル・ダ・アンポルダ生1905-1991年) は、共同戦線の名のもとに、1968年1月17日にFCバルセロナの会長になった。

エンリック・ジャウデット (1961-1968年)

ミロ・サンツが辞任した後、1961年6月にFCバルセロナの会長職のために、新選挙が呼びかけられた。

管理委員会 (1961年)

1961年3月1日にミローサンツが辞任した後、アントニ・ジュリア・デ・カップマニィが率いるマネージングコミッションが、状況を統括した。8人もディレクターから構成され、6月7日に行われた会長選までの間、厳しいクラブ状況の内政をつかさどった。

フランセスク・ミローサンツ (1953-1961年)

エンリック・マルティが辞任した後、法律上の溝が生じ、会長選は普通選挙で行われた。ミローサンツ(バルセロナ生 1918-1989年)は、アマット・カサフアナを311票の僅差で破り、1953年12月23日、バルセロナの会長となった。

エンリック・マルティ・カレット (1952-1953年)

エンリック・マルティは、アグスティ・モンタルの元、副会長となり、彼の右腕となっていたため、その後を引き継いだのは、当然の流れだった。

アグスティ・モンタル・イ・ガロバルト (1946-1952年)

1945年11月に、アグスティ・モンタル・イ・ガロバルト (バルセロナ生 1946-1964年)は、数年間、うまく率いてきたクラブのマネージングに終止符を打つのが、自然な形だと提案し、会長職を降りた。

ジョセップ・ベンドレイル (1943-1946年)

バルセロナの歴史には26人ものチェアマンがいるが、ジョセップ・ベンドレイルは市民戦争でフランコサイドに立って戦った人物である。当時の政府委員会は、公の秩序を保つために、ラ・コルーニャにおかれていた。

ジョセップ・アントニ・デ・アルベルト(1943年)

ジョセップ・アントニ・デ・アルベルトは、デ・ラ・メサ・デ・アスタ侯爵が1943年8月20日に完全に退いて後を、引き継いだ。

ジョセップ・ビダルーリバス (1942年)

ジョセップ・ビダル・リバスは、デ・ラ・メサ・デ・アスタ侯爵が収めた二期間の非常にわずかな不在中の穴を埋めたFCバルセロナの会長だった。

エンリケ・ピニェロ (デ・ラ・メサ・デ・アスタ侯爵) (1940-1942 / 1942-1943年)

エンリケ・ピニェロとデ・ケラルト (バルセロナ生、 1883-1960年)は、フランコ将軍に非常に近い貴族であり、政府当局によってFCバルセロナの会長職に据えられた。

ジョアン・ソレル (1939-1940年)

市民戦争の後、フランコ政権は、FCバルセロナを統治する別の管理委員会を作るよう、要請した。ジョアン・ソレル博士は、委員会を率いることを承諾し、1939年5月6日、市民戦争後、最初の会長となった。

管理委員会 (1936-1939年)

ジョセップ・スニョル亡き後、委員会が作られ、従業員委員会と名付けられ、市民戦争の間、決して誰もクラブを乗っ取ることがないように、クラブを管理した。

フランセスク・シャビエル・カサルス(1937-39年)

1937年11月に職員委員会の役職を下りて、カサルスは、バルセロナが1939年1月26日に陥没するまで、クラブの役職を支えた。

ジョセップ・スニョル (1935-1936年)

ジョセップ・スニョルは、市民戦争の始まったばかりの時期に、1936年の夏、フランコに銃殺されて亡くなった非業の死を遂げたため、‘殉教者会長’として知られ、FCバルセロナの歴史に暗い影を落としている。

エステベ・サラ (1934-1935年)

エステベ・サラは、1934年7月16日、非常に厳しい状況に置かれているクラブを救い出すという目的から、FCバルセロナの20番目の会長になった。クラブは経済面、スポーツ面の両方の面から、大きな問題に直面していた。

ジョアン・コマ (1931-1934年)

ジョアン・コマ (バルセロナ生, 1877-1959年)は、アントニ・オリベルから、1931年12月20日に会長職を引き継いだ。クラブ史上、最も困難な状況を過ごした一人だった。

アントニ・オリベル (1931年)

アントニ・オリベルは、辞任したガスパル・ロゼスと激しい論議の末、1931年10月22日にFCバルセロナの会長職についた。

トマス・ロゼス(1929-1930年)

この高名な銀行員は、1929年3月23日に歴史上、17番目の会長となった。この会長は、バルサが最初のチャンピオンズシップを獲得した年に会長になったことで、永遠に記憶に刻まれることだろう。

アルカディ・バラゲル (1925-1929年)

1925年12月17日から、1929年3月23日までFCバルセロナの会長職を務める。

エンリック・カルドナ (1923-1924年)

4回目の任期後、会長職を降りたジョアン・ガンペルから引き継いで、1923年7月29日以降、FCバルセロナの歴史上、15番目の会長となった。 

リカルド・グラエルス (1919-1920)

リカルド・グラエルスは、1919年6月10日に、FCバルセロナの創設者、ジョアン・ガンペルから会長職を引き継いだ。

ガスパル・ロゼス (1916-1917 / 1920-1921 / 1930-1931)

ガスパル・ロゼスは、3回に渡ってFCバルセロナの会長職を引き受けている。最初に会長になったのは、1916年6月25日のことであり、ラファエル・リョパルトの辞任に伴い、後任となった。詳細へ

ラファエル・リョパルト (1915-1916年)

ラファエル・リョパルトは、インドゥストリア通りで1915年6月29日に開かれた会議によって、会長に選ばれた。

ジョアキム・ペリス・デ・バルガス (1914-1915年)

軍人ジョアキム・ペリス・デ・バルガスは、クラブ史上でも最も物議を醸しだした会長の一人だった。

アルバル・プレスタ (1914年)

フランセスク・デ・モショの退任を受け、後を引き継ぎ、クラブ内部が大きく二分されることになった。多くのメンバーは、副会長にジョアキム・ぺリスを望んだが、残りの半数はそれを強行に阻止した。詳細へ

フランセスク・デ・モショ(1913-1914年)

フランセスク・デ・モショは、1913年6月30日に、コレヒオ・コンダル(群の学校施設)で行われた会議により、会長に選ばれた。その会議には700人もの人々が集まった。ガンペルは個人的な問題を解決するために、クラブの会長職を離れる必要があった。

オットー・グメリン (1909-1910年)

オットー・グメリンは、1909年10月14日にFCバルセロナの会長になった。ジョアン・ガンペルの最初の任期の直後にやってきて、消滅しそうになっていたクラブを救った。

ハンス・ガンペル (1908-1909 / 1910-1913 / 1917-1919 / 1921-1923 / 1924-1925年)

FCバルセロナの創設者、ジョアン・ガンペルはスイスで裕福に育てられた家庭の5人兄弟の一人だった。非常に若い時から、彼は自分の時間を勉強と様々なスポーツを練習する時間に分けて過ごしていた。常にあらゆる運動に堪能だった。

ビセンス・レイグ (1908年)

ビセンス・レイグは、FCバルセロナ史の会長として、最も任務帰還が短かった会長である。

フリ・マリアル(1906-1908年)

フリ・マリアル (1971年逝去)は、1906年10月16日にFCバルセロナの会長職をジョセップ・ソレールから引き継ぎ、社会的にもスポーツ面でも厳しい状況のクラブの舵を取らなければならなかった。

ジョセップ・ソレール (1905-1906年)

ジョセップ・ソレールは、クラブ衰退期の時の会長だった。

アルスール・ウィッティ (1903-1905年)

アルスール・ウィッティ (1878-1969年)は、当時、バルセロナに住んでいた裕福なイギリス人家庭の一員であり、創設間もないころにFCバルセロナにやってきた。

パウル・ハアス (1902-1903年)

パウル・ハアスは、クラブ創設に関わっていない最初の会長であり、同時にチームでプレーしたことのない初めての会長でもあった。

バルトメウ・テラダス (1901-1902年)

バルトメウ・テラダスは、FCバルセロナ全史を通して、もっともマルチタレントに恵まれた会長の一人だった。

ウォルター・ワイルド (1899-1901年)

ウォルター・ワイルドは、FCバルセロナ史上の栄誉ある最初の会長である。

 

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