ウリスト・ストイチコフからの手紙

ウリスト・ストイチコフからの手紙

FCバルセロナへの移籍から、ちょうど30年を迎えたレジェンドがその思いを告白

今からちょうど 30年前の今日、 1990年5月30日に、FCバルセロナに正式に移籍し、私は、地球上でもっとも幸せな人間になった。だが、最初は・・・

私のバルセロナへの到着は、一年前に始まった。当時の私の所属チーム、 CSKAソフィアが、1989年4月、ヨーロッパのカップウイナーズ準決勝でバルサと対戦した。私は、3得点をマークする幸運ーカンプノウで2得点、ブルガリアで1得点ーを決める幸運を得たが、結果的にバルサがベルンでの決勝進出を果たすことになった。この決定的な試合での3得点が、ほぼ確実に、後の私の全スポーツキャリアを決めることになったのだろう。

中でももっとも賢かったのは、バルサの仲介人であり、代理人のジョセップ・マリア・ミンゲージャであり、今は亡き、当時のクラブの副会長パコ・ベントゥーラと共にバルサでの私の移籍の指揮をとった。あの試合の後、私の進歩を見て、移籍へのOKを出したヨハン・クライフに進言したのだった。

先行きの不透明な数ヶ月だった。1989年の終わり、私は、すでにバルサとサインを交わしていたが、それを私の妻や両親にも言わなかった! 途中で何かがうまくいかなくなるようなことは、何も欲しくなかった。そのために、1990年5月に公式発表になるまで、黙っていたのだ。想像してくれ・・・

1989年、バルサと仮契約にサインしていたが・・・ 妻にも両親にも言わなかったんだ

ウリスト・ストイチコフ

私の獲得に興味を示した他のチームがあったか?騙すことはしない。あったよ。1989/90年、ゴールデンブーツ賞を獲得 -ウゴ・サンチェスとゴール数でタイだった- し、いくつかのチームが扉を叩いた。その前にも他から声がかかっていた。どのチームだったかって?その中で一番だった名前だけ、あげよう:80年終わりにおいて、ヨーロッパでもっとも偉大なチームの一つだったパナティナイコスだ。私に巨額の金額を提示するに至ったが、私は、とても若かった。たった、20歳ちょっとであり、後、一年、ブルガリアにいることで、もっと多くのことを学べるだろうと考えた。 CSKA は、当時、規律を第一にする軍のチームであり、イバノフ、ペネフ、コスタディノフなどの偉大な選手を抱えていたことを忘れてはならない。

ようやく、バルセロナに到着して、私は人々にあっという間に馴染んだ。ミンゲージャとその周囲から、多くのアドバイスを受けた。彼らと共に、ほぼ、毎日、モンジュイックのそばにあるポンペイアテニスクラブに通った。そこで、テニスやその他のスポーツを行ない、プールに行き、多くの人々と知り合うことができた。

それに、ガストロノミー(美食)について、どう言えばいいのか!白いんげん豆、ブティファラソーセージ、パエリヤ、アロス、パン・コン・トマテ・・・これらの典型的な食事は、私を虜にした。ブルガリアにも似たような食事があったからだ。

私のバルセロナでの最初の時期は、自由な時間をカタルーニャ中をまわることに費やした。車に乗り、典型的な村を見て回った。最初の旅行の一つは、レリダの近くにあるカロンジェやギメラへのビーチだった。誰もが私を素晴らしくあつかってくれ、最高だった!私は、最初の瞬間から、馴染んだと感じた。いまだに、通りで私を引き止め、私のスタイルに感謝してくれる人たちがいることを言わなければならない。カタルーニャだけではない、マラガに、サラマンカに、マジョルカにレオンにいても、人々は、私を引き止め、感謝のことばを口にしてくれる。

だからこそ、常に機会があるごとに、私は、この優しさを人々に返そうとしてきた。例えば、1997年に国王杯を制覇した後のことだ。私たちは、サン・ジャウマ広場でタイトルを祝っており、当時の州政府のジョルディ・プジョル首相やジョセップ・リュイス・ムニェス会長が、祝って、飛び跳ね始めた。いまだに多くの人が記憶している語り草となっている。あれは、歓喜の瞬間であり、それからずっと、あの時、受けた優しさを人々に返そうとしている。

自治州政府でのウリスト・ストイチコフ
Hristo Stoitxkov, al Palau de la Generalitat.

同じ理由で、その数年前の1994年、私のチームメート全員が私がバロンドールを獲得するのを助けてくれた時、当時、特に支えてくれた人たちへレプリカをプレゼントしたいと思った。バロンドールのレプリカを4つ依頼した。一つは、FCバルセロナに(クラブのミュージアムに展示されている)、もう一つはCSKAソフィアに、一つは、プジョル首相、もう一つは、 ブルガリアのジェリュ・ジェレフ大統領に。奇妙に思われるかもしれないが、最後の二人は、当時、カタルーニャとブルガリアを代表する最高責任者であり、両国から受けている感謝を表現するのは当然だと思えたのだ。

もう一人、私が多く、あるいはあらゆる恩を感じている人物は、ヨハン・クライフだ。私のことを信じてくれたことに、まず、感謝しなければならない。バルセロナについたばかりの時、私に話したことを覚えている。「私の言うことを聞きなさい、あなたがバロンドールを勝ち取るまで、私はあなたと共に働くだろう」当時の私は、事実上、無名の青年であり、クライフがそれを私に言ったことは、大きなモチベーションを与えてくれた。その後、何度となく、私をむかつかせることを口にしたが、結果的に、それは、私の勝つために飛び出す欲望を増やすことになった。ヨハンは、偉大なモチベーターであり、永遠に彼に感謝し続けるにたる多大なことを、私の、そして、私の家族のためにしてくれた。

サッカー的な話をすれば、最初は全てが容易に運んだわけではなかった。私は、ボールのポジションに適応しなければならなかったし、ボールに走らせ、走らないというのになれるのに苦労した。チームのプレースタイルコンセプトを全て理解し、受け入れられた時、全てが機能し始めた。あのチームにあった素晴らしい雰囲気が鍵だった。

ある日、監督、クライフが、その少し前に心臓に問題があり、手術をした際にビルバオに遠征できなかった日のことを覚えている。チームは、勝利を彼に捧げたかった。そして、サン・マメスで0-6で勝ちを収めたのだ。あの日、それに私のバルサでの最高のゴールの一つを決めたのだ。

全ての偉大な人々、偉大なチームメート、全員が最高の関係を築いていた。それが、のちに、ピッチ上で、目線ひとつで理解できる理由を説明することになる。今、あれから、30年が過ぎても、友情を保ち、誕生日には、お互いに祝い続けている。

でも、あのチームでは、誰がリーダーだったか?

あのプロジェクトのリーダーは、間違いなくヨハン・クライフだっただろう。だが、ロッカーチームのリーダーは、私がついた時は、ホセ・ラモン・アレチャンコ、偉大なキャプテンだった。その後、バケーロ、スビサレタ、クーマン・・・全員が長年、いたし、彼らが話す時はみんなが耳を傾けた。その後、別のリーダーがいた。チキ・ベギリンスタインは、ジョークのリーダーだったし、エウセビオは、遅刻のリーダーだったし、フリオ・サリーナスは、賭けに負けるリーダーだったし、ラウドルップは、ワインのテスティングリーダーだった・・・。試した後に、いつもウェイターに、「これはよくない、別のを持ってきてくれ」と言っていたのを覚えているよ。

ベギリンスタインは、ジョークのリーダーだったし、エウセビオは、遅刻のリーダーだった・・・

ウリスト・ストイチコフ

でも、他にもあったよ。ゴイコエチェアは、レタスやアスパラ、赤ピーマンを持ってくるリーダーだったし、ナダルは、ソブラサーダのエンサイマダ担当で、もっとも若いのは、パン・コン・トマテを担当していた。足りないものなど、何もなかったよ。

全員が、一人残らず全員が、私のバルセロナ時代を助けてくれた。彼らだけではない。

例えば、クラシコの最中、主審を踏みつけた後、チームは私が落ち着くように助けてくれた。私は、とても若かったし、クライフとれシャックは、私をリラックスさせるために話してくれた。私は、いつも癖の強い性格だったが、その点についても、働かなければならなかった。一つのことは、簡単に帰ることはできない。私は自身の人間性を誇りに思っている。性格は、薬局で買えるものではない。そういった性格を持っているか、いないかだ。

主審を踏みつけたエピソードから、私は、もっとリラックスしてプレーすることを学んだ。私は、自分自身に言いきかせた。「これをやるな、あれをやるな」と。また、年月と共に、私は、あの主審、ウリサル・アスピタルテと素晴らしい関係を築いたことを言わなければならない。ビルバオの彼の家に訪ねていったし、彼も私の自叙伝の発表の際にブルガリアに来た。結果的に、彼は私のサッカー選手としての歴史の一部になったのだ。

バルサで成功するために私を助けてくれた多くの人々がいる。クライフのほかにも、レシャック、ブルインス・スロット、カルロス・ナバル、ロドルフォ・ペリス、フィジカルコーチの、アンヘル•ビルダ、ジョアン・マルゴサ、マッサージのアンジェル・ムル、ジャウマ・ランガ、チームドクターのカルラス・ブレスティット、ジョセップ・ボレイ、フェルナンド・バニョス、とりわけ、フィジオセラピストのフィレンツェ ・アルネド、サルバ・エリンらが、その他にも大勢いるが、中でも私のパフォーマンスを保つ鍵となった。

また、ジョセップ・リュイス・ムニェス夫婦は、パルマへの移籍の後、バルサに戻る鍵となった。1996 年にバルサから去ったことは、私のキャリアにおける最悪な決断だったことは間違いない。もしも、魔法の杖があり、たったひとつだけ、私のキャリアを変えることができるなら、それになるだろう。幸運なことに、一年後に私は戻ることができた。ジョアン・ガスパルト、アントン・パレラ、ニコラウ・カサウス、アマドール・ベルナベウのこと、前述のジョセップ・マリア・ミンゲージャ、パコ・ベントゥーラは、中でも、私と私の家族にとって、最重要な役割を果たしたことも忘れたくない。

孫のミアちゃんと一緒にウリスト・ストイチコフ
Hristo Stoitxkov, amb la seva neta Mia.

私は、あらゆる全員に感謝しているし、もちろん、あらゆるファンに感謝している。失敗することが不可能なゴールをミスした日々に、その次の瞬間にカンプノウは私に拍手し、勇気付けてくれた。私とチーム全員にだ。サポーターなしでは、私たちのあの数年は、可能にはならなかった。

マイアミから、大きなハグを送ります、とりわけ、つらい日々を過ごしている全員に

ビスカ・バルサ! 100%!

Força Barça
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