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カンプノウの歴史概要

カンプノウは、1957年9月24日に開場し、1982年ワールドカップのオープニング会場となりました。

クラブ施設とクラブの盛衰は、深く結びついています。その意味で、FCバルセロナの歴史は、3つの主な段階に明確に分けられます。

初期には、常設のグラウンドがなく転々としていました。 次に、ラス・コルツがホームグラウンドとなってクラブが強化されます。 そして、クラブの壮大な世界規模への拡大を反映して、カンプノウの建設が行われました。

1922年にオープンした古いラス・コルツ・スタジアムは、増え続けるバルサのファン層に対応するため、幾度も改修されています。 スペイン市民戦争の後、クラブの会員数は年を追うごと増え続け、試合の観戦者も膨大な数になることが予想されました。 このサポーターの増加が、南ゴール裏(1946年)、北ゴール裏(1950年)、グランドスタンドの収容人数(1944年)など数度の拡張プロジェクトのきっかけとなりました。 しかし、本当に必要なのは新スタジアムの建設ということが明らかになってきたため、理事会はラス・コルツの改修と新スタジアムの夢を実現する計画を組み合わせました。

新スタジアムの必要性


1948年以来、まったく新しいグラウンドの建設というアイデアに対する期待が人々の間で高まりましたが、実行は容易なことではありませんでした。建設許可を得るためには、この新スタジアムが、当時のディアゴナルの住宅地区開発計画と調和すると当局を説得する必要があったからです。

最終的に、新スタジアムを建設する以外にないと理事会を納得させたのは、FCバルセロナ最高の選手の1人で伝説となったラディスラウ・クバラの入団だったとよく言われています。 確かに、クバラがチームへの大きな関心を呼び、クラブの士気がそれまでになく高まったことに疑いの余地はありません。しかし、建設決定のきっかけとなったのは、1947-48シーズンと1948-49シーズンの2回のリーグ優勝で、それはこの偉大なハンガリー人がクラブと契約する前だったのです。

実際に、新スタジアムに向けて着実に第一歩を踏み出したのは1950年9月でした。クバラがバルサカラーのユニフォームを着て初の親善試合に出場する15日前のことです。 そのとき、当時の会長アグスティ・モンタル・イ・ガロバルトがラ・マテルニダッドと呼ばれる区域にある敷地購入のオプションに署名したのでした。しかも、そのわずか2カ月後に取引されることになっていたオプションです。

その後は荒れ模様になります。1951年2月9日にカンプノウコミッションが、将来のスタジアムの場所をディアゴナル地区の上手に変更したため、管理当局との無益な交渉が延々と続くだけで、何も前に進みませんでした。 1953年11月14日にフランセスク・ミロサンスが選挙を制してFCバルセロナ会長となったとき、この問題は永久に棚上げとも言える状態になっていました。 しかし、この新会長は、新スタジアムをできる限り早く建設すべきという考えを猛烈に支持し、1954年2月18日に就任するやいなや、新スタジアムの場所をディアゴナル地区の上手ではなく、1950年に購入した敷地に戻したのです。 そして、3月28日、詰めかけた60,000人のバルサファンが見守る中、民政長官フェリペ・アセド・コルンガの指揮と、バルセロナの大司教グレゴリオ・モドレゴの祝福の下、カンプノウになる場所で定礎式が行われました。

建設(1954~1957年)


スタジアムの建築設計は、ミロサンスのいとこであるフランセスク・ミジャンス・ミロとジョセップ・ソテラス・マウリが、ロレンソ・ガルシア・バルボンの協力を得て行いました。 それから1年以上後の1955年7月11日、クラブはINGAR SA社に建設を委託しますが、同社の推定では総工費6,662万ペセタ、完成まで18カ月の大プロジェクトでした。 しかし、スタジアムの最終コストはこの当初の見積もりを大幅に上回り、最終的な合計額は約2億8,800万ペセタに膨れ上がり、それを賄おうとすると不動産債権(1億ペセタ)と短期債券(6,000万ペセタ)を発行し続けなければなりませんでした。 この数字から言えたのは、スタジアムの建設資金は調達できても、その後の長期間にわたってクラブが莫大な負債を抱えるということでした。

新スタジアム落成


新スタジアムの落成日は1957年9月24日に予定されていました。 このような機会にふさわしいオープニングセレモニーの開催を任務とする特別コミッションが組織され、責任者は アレイクス・ブチェレス(広報担当)とニコラウ・カザウス(組織)の2人でした。 9月21日の土曜日、バルセロナ市庁舎のサロン・デ・ラス・クロニカスにおいて、レアル・アカデミア・エスパニョーラの会員、ホセ・マリア・デ・コシオが厳かに新スタジアムの落成を祝すと宣言。 9月のその週末には、ラス・コルツとパラシオ・ムニシパル・デ・デポルテスで、クラブのさまざまなスポーツチームが国際試合を行いました。 クラブの歴史に語り継がれてゆくこの日は、偉大な詩人、ジョセップ・M・デ・サガラが自作のソネット「アスル・グラーナ」で言葉を使って表すとともに、新しいFCバルセロナのスタジアムを称えてアドルフ・カバネーの曲にジョセップ・バディアが詩をつけたアンセムが作られました。

1957年のこのメルセ祭りの日は、街中がFCバルセロナのカラーで埋め尽くされました。 祝賀式典は続き、荘厳なミサが執り行われて、バルセロナの大司教、グレゴリオ・モドレゴがスタジアムへの祝福の言葉を述べます。 次に、オルフェオン・グラシエンセ合唱団がヘンデルの「ハレルヤ」を披露し、「モントセラトのマリア」像も高揚しているように見えました。 来賓席には当時のスポーツ界と政界の重鎮が顔を揃え、クラブ会長フランセスク・ミロサンス、現在のスポーツ省にあたる運動事務局長ホセ・ソリス・ルイス、国民スポーツ協会会長ホセ・アントニオ・エロラ・オラソ、バルセロナ民政長官フェリペ・アセド、バルセロナ市長ジョセップ・M・デ・ポルシオレスなどの姿がありました。

スタジアムの建設作業は完了していませんでしたが、90,000人を超える観衆がこのイベントを目の当たりにし、カタルーニャの主要フットボールクラブすべての代表者だけでなく、バルサの他のスポーツチームとサポーターズクラブのメンバーたちがピッチ上をパレードしました。 さらに、新しいスタジアムアンセムが披露された後、カンプノウ初の試合が16:30にキックオフされ、 FCバルセロナとポーランドのワルシャワが親善試合を行いました。 カンプノウの芝を初めて踏んだバルサのラインアップは、 ラマリェッツ、オリベリャ、ブルゲー、セガーラ、ベルヘス、ヘンサナ、バソーラ、ビジャベルデ、マルティネス、クバラ、テハーダなど。 後半はメンバーを入れ替えて、 ラマリェッツ、セガーラ、ブルゲー、グラシア、フロタドス、ボッシュ、エルメス、リベリェス、テハーダ、サンペドロ、エバリストがプレーしました。 試合は、バルサがエウロヒオ・マルティネス(11分に決めたシュートがカンプノウの初ゴールとなりました)、テハーダ、サンペドロ、エバリストのゴールにより4-2で勝利しました。 ハーフタイムには、アグルパシオン・クルトゥラル・フォルクロリカ・デ・バルセロナの1,500人のメンバーが巨大な輪でサルダーナを踊り、10,000羽の鳩を放しました。 そして、FCバルセロナの歴史のまったく新しいページが始まったのです。

1957年以降の進化


カンプノウがオープニングした当時は、そのキャパシティは 93.053人で (15万人終了できるという以前のプロジェクトは、廃棄されました) 、そのピッチの面積は、107 x 72 メートル(現在は、UEFA規格に従い105x68)でした。建設に使用された主なマテリアルは、セメントと鉄でした。その当時、 1957年から、スタジアムは、何度もリフォーム、改修を繰り返しています。

その中で最も目を惹くのは、照明の設置 (1959)、トリビューン二階席に設置された電光掲示板(1976) 、プライベートVIPルーム、VIP用スペース、プレス用スペース (全て 1981/82年)などです。

1982年のスタジアム拡張


1982年にスタジアムは、3階に新たに22.150席を加え、それによって、カンプノウのキャパシティは、115.000席に拡大しました。その1982年に、スペインワールドカップのセレモニーが行なわれる会場になりました。その二年後、1984年、2階のトリビューン席にクラブのミュージアムが作られました。

1994年に新たな改修が行なわれ、ピッチレベルを2,5メートル下げることで、 ゴール裏の立ち見席をなくし、一階席を拡張しました。
世紀が変わる前に、立ち見席は椅子席に変えられました。その結果、収容人数は、現在の約99.000席となりました。

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