セカンドチーム (1902)

バルサ・アトレティック (1991年6月)

オリオル・トルト (1980)

ユース・スペイン勝者 (1973)

バルサ・アトレティック (1970年10月)

バルサのユースチームは1901年に設立されました。事務局長も務めるセンターフォワードのルイス・ドッソが創設したクラブのセカンドチームは、非常に良い結果を上げたため、第三チーム、第四チームと数は増えていき、「アセリムス」(忠実)や「ノバ・ジェルマノール」(新しい兄弟)などさまざまな愛称で呼ばれました。

1920年代の伝説的なチームを支えた若者たち

1918年、ジョアン・ガンペールの下にいた事務局長ジョアン・ラゲは、ジュニアとユースのチームを創設しました。ハンガリー人コーチのイェッサ・ポッソーニが、その育成チームの指揮を任せるために雇われた最初の人物となり、まだアマチュアだった第4レベルのチームを率いることとなりました。 バルサが成功を重ねた1920年代の黄金期、ほぼ全員がカタルーニャ人で編成されていたチームが上位を維持できたのは、1当時、数千人にまで数が増えていたユースからあがってきた選手のおかげでした。。

戦後の再建とエスパーニャ・インドゥストリアル

スペイン内戦後の激動で、クラブの組織は大きな打撃を受けたため、ラモン・リョレンスとジョセップ・ボテルは全身全霊を傾けてチームを再建し、40年代と50年代の大きな成功へとつなげました。

1945年、FCバルセロナは繊維会社のエスパーニャ・インドゥストリアルと協力協定を結び、その職場チームは実質的にバルサのユースチームの1つとなりました。 エスパーニャ・インドゥストリアルは1953年にスペイン1部リーグに昇格しましたが、2部リーグに残ることを決断。しかし3年後に再び昇格の権利が得られると、それを受け入れています。 1部リーグでは社名を冠したチームは認められていなかったため、チーム名をコムタルと変え、1956/57シーズンに1部リーグを戦いました。

1970年、コムタルとアトレティック・カタルーニャの合体:バルサ・アトレティックの誕生

コーチのミケル・グアルの素晴らしい努力にも関わらず、1957年にコムタルは再び2部リーグに降格。3部リーグに落ちたシーズンすらありましたが、当時やはり3部リーグにいた、バルサの別のユースチームであるアトレティック・カタルーニャと1970年に合併して、バルサ・アトレティックが誕生しました。

1965年には、サン・アンドレウ地区のCDファブラ・イ・コアツという職場チームもバルサの組織に加わり、バルサ・アトレティックの設立時まで3部リーグでプレーしています。

40年におよぶ成功の歴史

新しいバルサ・アトレティックの最初のコーチには、ジョセップ・セゲールが就任。3部リーグからスタートし、1974年以降は2部リーグのAやBにいました。 その頃、ユースチームは数多くのタイトルを獲得しており、1979年にラ・マシアが創立されると、ユース組織に大きな勢いがつきます。1980年からはオリオル・トルトが管理人に就き、それからほぼ20年間にわたって、人材発掘で大きな貢献を果たしました。

バルサの第3チームだったバルサ・アマテルは、1967年の創立以降、バルサ・アトレティックより下のリーグでプレーしていました。 1993年にその名をバルサCに変えましたが、バルサ・アトレティックが3部リーグに降格した2007年に解消されています。

1991年、新しい決定に伴ってバルサ・アトレティックはバルサBに改名しました。そして2008年、グアルディオラの下でセグンダBに昇格すると、再びバルサ・アトレティックを名乗るようになりました。 その名称は2010年、2部Aに昇格したときに再度バルサBへと変わっています。

最も若いチームからバルサBに至るまで、クラブの下部チームは長年にわたって数多くの国内外タイトルを勝ち取ってきました。しかし下部チームの目的は、大会に勝つことではなく選手の養成にあることから、トップチームに上がって成功した選手が非常に多いことの方が特筆すべき点だと言えるでしょう。 クラブの養成組織の成功は、最近の6カップ優勝チームの中心がラ・マシア出身の選手たちであり、さらにワールドカップで勝ったスペインチームにはクラブのユース組織出身者である バルデス、レイナ、プジョル、ピケ、ブスケッツ、チャビ、イニエスタ、セスク、ペドロの9選手(そのうちレイナとセスク以外全員がバルサの選手)が参加していたことからもはっきり見て取ることができます。