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昨シーズン、対戦のためにカンプ・ノウを訪れたフランク・デ・ブール / FOTO: MIGUEL RUIZ - FCB

[[DES_1]]バルサとアヤックスが同じ根を持ち、そのサッカーの歴史を共有しているのは何の秘密でもない。両者の関係は1970年代にリヌス・ミケルス監督の手によりヨハン・クライフがカンプ・ノウでプレーするためアムステルダムからバルセロナに到着したことから始まった。しかし関係が強固になるのはジョセップ・ジュイス・ヌニェスがヨハン・クライフを監督として抱える80年代の終盤、1988/89季まで待たなければならなかった。クライフはオランダのトータル・フットボールの基本スタイルを持ち込み、そこからバルサとアヤックスは、違う道を歩むものの、同一のサッカー観を共有することになった。

クライフがベンチを預かるようになり、最初にアヤックスから加わった選手は1991年のリチャード・ビチュへ。カンプ・ノウでは2年に渡りプレー、その後アムステルダムで選手キャリアを終えた。伝説の選手、ロナウド・クーマンもウェンブリーでのサンプドリアとのチャンピオンズリーグ決勝でフリーキックから決勝ゴールを決めるなどバルサで栄光の時を過ごしたあと、アヤックスで引退した。この決勝で先発出場した別の選手、ミカエル・ラウドルップも選手人生の最後をアムステルダムで飾った。

90年代終盤の“ブーム”

1997 年のルイス・ファン・ハールの監督就任で両チームの関係はより綿密なものになった。バルサに到着する前の2年にアヤックスを欧州チャンピオンにしたファン・ハールはチームの基盤を自チームから持ち込んでの新チーム構築を望んだ。ミハエル・ライツィハーウィンストン・ボハルデを獲得、その後パトリック・クライファーデ・ブール兄弟を加えてオランダ人監督は目標達成を狙う。実際に2000年中旬の辞任の前にリーガ優勝2回(1997/98、1998/99)を果たした。

そのあと後任のロレンソ・セラ・フェレールは95年のアヤックスからサイドアタッカーのマルク・オーベルマルスヤリ・リトマネンを迎えた。マジョルカ島出身監督はタイトル獲得を果たせなかったがフランク・ライカールトがベンチ指揮を担当するころにはクラブ近年の歴史を変えるポイントを迎える。自身もアヤックス所属の選手であり80年代終盤にサッキ時代のミランのピープレーヤーだった指揮官はロナウジーニョのサポートもあり新たなチャンピオンチームを作り上げるに至った。奇しくもここには90年代のアヤックスの中心選手で、選手時代のライカールトと中盤でコンビを組んだエドガー・ダービッツがいた。

2009年夏にペップ・グアルディオラがチーム指揮するようになったときには、3人の補強選手のうちマックスウェルズラタン・イブラヒモビッチというアムステルダム・アレーナでのプレー経験がある2選手で占められた。前者は2シーズン半、後者は1シーズン所属のあとイタリアに戻るべくミランへ移籍した。その後オランダの首都のチームに所属した選手はこれまでいなかったが、今季ルイス・スアレストーマス・フェルメーレンが加わった。続く土曜の試合でプレー可能なウルグアイ人フォワードはアヤックスで国際的なキャリアをスタート、ベルギー人センターバックは多くの選手を輩出したアヤックス下部組織出身の一人に数えられている。

逆方向の道

上述したビチュへ、クーマン、ラウドルップのあと、多くの選手たちがカンプ・ノウのあとアムステルダム・アレーナでプレーするという別の道を歩んだ。“キンタ・デル・ミニ”の一員だったロジェール・ガルシアがキャリア最後の数年をオランダで過ごし、2006年にはアスルグラナ選手のガブリ・ガルシアとともにプレーした。2008年にはオレゲール・プレサスがバルセロナからアムステルダムに移り3年を過ごした。2013年冬にはイサック・クエンカがフランク・デ・ブールのアヤックスに半年間レンタル移籍してリーグタイトル獲得に関わった。昨シーズンはボージャン・ケルキッチがイタリアでの2シーズンのあと同チームでプレーした。

別のケース

監督として指揮している間、ライカールトはヘンク・テン・カテとヨハン・ニースケンスというコーチを抱えていた。その後テン・カテはアヤックスを指揮、ニースケンスは1970年代に両チームの選手としてプレーしていた。


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