1962-1970: バルサの選手が鍵になったワールドカップ (II)

1962-1970: バルサの選手が鍵になったワールドカップ (II)

1962年に7人、 1966年に4人、バルサの選手が参加したワールドカップシリーズを送るスペシャル第二弾。

バルサの選手が鍵になったワールドカップシリーズの第二弾 (II)。今回は、1962、1966、1970年のワールドカップを振り返る。この間、驚くべきことにバルサの選手は、参戦しなかったスペイン代表に全く含まれなかった。

チリ 1962

-当時のワールドカップでは、バルサの選手の召集人数が記録を生み出した。スペイン人の代表監督、パブロ・エルナンデス・コロナドがバルサの選手を7人も召集したためだ。GKサドゥルニ、ディフェンダーのロドリとガルシア、ミッドフィルダーのセガラ、ガライ、ベルヘス、アタッカーでパラグアイ出身のエウロヒオ・マルティネスだった。

-興味深いことに、エルナンデス・コロナドは、スペイン代表を作るに終わり、その後、チーム監督としてはエレニオ・エレラが選ばれた。エレラはその後、1958-60年にかけてバルサの監督になるが、当時はインテルの監督だった。

-この若きゴールキーパー、サルバドール・サドゥルニ(21歳)が1961/62年に出現したのは、驚きだった。最初にプレーしたのは、公式試合14試合を行い、ラマジェッツが引退してからだった。一方、もう一人のキーパー、ペスードは27試合に参戦した。その後、サドゥルニはこのワールドカップでは1試合もプレーすることはなかった。

-スペインは、チェコスロバキア、メキシコ、そしてペレの強力なブラジルと同グループとなった。チェコスロバキアに負け、メキシコに勝った後、エレニオ・エレラが率いた代表は、ブラジルに勝つ以外に選択肢はなかったが、ブラジルはペレを怪我で欠いていた。ロドリとガルシア、ベルヘスが当時のスペインでブラジルを前に非常に素晴らしいディフェンスを見せたが、主審の不公平なジャッジの前に、2-1で試合を落とす結果となった。

イギリス 1966

-抽選で、スペインはアイルランド、シリアと共に予選を戦うことになったが、シリアは大会欠場を決めたため、スペインはアイルランドと戦い、ダブリンで1-0(バルサのフェラン・オリベイラがいた)と制したが、その後、サンチェス・ピスチュアンで4-1で再び、制した。 またしても、オリベイラがいたほか、バルサのアタッカー、ヘスス・マリア・ペレダが活躍し、残りの3ゴールを決めた。また、残りのバルサの二人の選手も参加し、パリでプレーし、スペイン代表は再び、1-0と勝利を収めた。

-代表監督、ホセ・ビジャロンガは、FCバルセロナから5人の選手をイギリスワールドカップに召集した。GKレイナ、ディフェンダー、エタディオ、ガジェゴ、オリベジャ、アタッカーのフステだった。セビージャの英雄、ペレダは選出されなかった。

-最初の調整試合は 1966年6月12日にアヤックスを相手にリアソールで行われた。そこには、19歳の若きヨハン・クライフがおり、GKのイリバルとオリベジャのミスを生かしてゴールを決めた。アヤックスはスペインを1-2で制した。

-一度、イギリスでスペインはアルゼンチンを前に負け (1-2)、スイスを倒し (2-1)、西ドイツに負かされた (1-2)。その結果、ワールドカップから退散した。ガジェゴは3試合に出場し、エタディオは最初の1戦でアルゼンチンを相手に戦ったのみ、フステは西ドイツ戦でゴールを決めたが、結果的には何の役にも立たなかった。また、レイナとオリベイラは参戦しなかった。

メキシコ 1970

-このワールドカップで、ユーゴスラビア、ベルギー、フィンランドと本来、くみしやすい相手に当たったにも関わらず、スペインはグループリーグを超えることができなかった。

-1969年10月15日、予選最後のスペインーフィンランド戦を戦ったが、両代表とも既に敗退は決まっている状態だった。試合は6-0で終わり、ラディオスラオ・クバラが率いた最初の試合となった。その後、クバラは 1980年まで代表を率いることになる。

-1970年にスペインが欠場したことにより、トーレスやガジェゴ、エラディオ、レシャック、レイナ、サルドゥア、サバルサ などのバルサのスター選手は、ワールドカップでの栄光を手にできずに終わった。

Força Barça
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