1930-1958: バルサの選手が鍵になったワールドカップ (I)

1930-1958: バルサの選手が鍵になったワールドカップ (I)

バルサ視点からワールドカップ全史を振り返る最初の章

ブラジルワールドカップ開幕までのカウントダウンが進むところで、過去の大会でのアスルグラナ選手たちの活躍を振り返る連載をスタートする。最初は1930年から1958年、バルセロナがそれほど多くのワールドカップ出場選手を出していなかったころを分析する。

ウルグアイ1930

−スペインは移動手段に問題があるとして第1回ワールドカップに参加しなかった。こうしてサミティエール、ピエラ、アロチャ、ゴイブルといったバルセロナの象徴的な選手たちのウルグアイ大会への参加が阻まれた。

イタリア1934

−1933−34シーズンにバルサはリーガで最下位に続く低い順位だったものの、アマデオ・ガルシア・サラサル監督のスペイン代表メンバー22人にGKノゲス、DFサバロ、FWベントルラの3選手が選ばれた。

−イタリアとの準々決勝(1−1)ではスペインから7人の負傷者が出た。翌日の延長戦にはアスルグラナの3選手がデビュー。この試合で1−0と勝利した。

フランス1938

−大会はスペイン内戦(1936-39)のさなかに行われスペインは不参加。リーガも1935−36シーズンを最後に中断された。当時のスター選手としてはバルマーニャ、ライク、アレソ、ベントルラ、エスコラがいた。

ブラジル1950

−バルサからはGKラマレッツ、DFジョセップ・ゴンサルボ、MFマリア・ゴンサルボ、FWバソラ、FWセサルがブラジルへ行った。

−アントニ・ラマレッツの名声はこのワールドカップで轟いた。この時「マラカナの猫」、「男前なゴールキーパー」と行った呼び名が与えられた。

−このほかブラジルで輝きを見せたアスルグラナ選手は右サイドウイングのエスタニラウ・バソラ。米国、チリ、ウルグアイ(2)から計4点を挙げた。

スイス1954

−スペインは1954年3月17日、ローマで行われた大会出場権を賭けてのトルコ戦で相手を上回ることができず本大会に出場できなかった。

−同試合の1時間前、FIFAの役員と名乗る人物がスペイン代表のロッカールームを訪れ、クバラの代表選手としての資格に問題があるとの電報を提示。ラスリとの愛称があった選手が出場した場合、その時点でスペインは出場資格を失うと通告した。この信じられない状況にあって、電報の信憑性をFIFAに問い合わせる者は誰もいなかった。クバラはその3日前、イスタンブールでの試合に問題なく出場し、これを問題視する向きはなかった。ラスリはチームのスター選手だったが、結局試合に欠場。試合は2−2の引き分けに終わり、大会規定によりイタリア少年が引いた抽選によってスペインの予選敗退が決まった。後になってFIFAは問題となった電報の存在を断固否定した。

−スペインが予選敗退したことで、ほぼ間違いないとみられていたアスルグラナ選手、ラマレッツ、ビオスカ、ボッシュ、クバラのスイス大会出場は叶わなかった。

スウェーデン1958

スペイン代表は再びワールドカップの出場キップを手に出来なかった。この時はスイス、スコットランドとの予選グループを突破できなかった。ラマレッツ、オリベージャ、ベルジェス、セガーラ、ボソラ、クバラ、スアレスといった選手たちの大会出場の夢は潰えた。

Força Barça
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