FCバルセロナ、初の民主選挙から40年

FCバルセロナ、初の民主選挙から40年

ジョセップ・リュイス・ヌニェスが 10.352 票を獲得し、フェラン・アリニョの 9.527票、ニコラウ・カサルスの6.202票を接戦で制した。

フランコ独裁政権の過程を経て、新たな民主主義体制へと移行したバルサは、抽選によって選ばれる選挙人によって行われていた時代遅れの会長選挙を終え、普通選挙を取り入れた。それにより、1978年、初の民主選挙が行われることになった。 

1975年9月4日、アグスティ・モンタル・コスタ会長は、スペインサッカーの構造の民主化及びサッカークラブのソシオによる会長民主選挙の要望を公にした。独裁者フランシスコ・フランコの死(11月20日)により、スペインの生活全般に渡り、自由化へのプロセスの勢いは止まらず、それはサッカーにおいても例外ではなかった。

1977年9月18日、モンタル政権が 終わりを告げ、当時の副会長ライモン・カラスコに会長の座を譲り、 1978 年5月6日にカンプノウにて、オーソドックスな民主選挙が行われることになった。つまり、複数の候補者が立候補し、ミーティングが行われ、メディアを通して選挙運動が行われた。また、投票は、機密扱いされ、慎重に管理された上で行われたが、このような普通選挙は、バルサの歴史上、初めてのことであった。

自然な形で、多くの候補者が途中、現れたが、最終的には、3人の候補者が残った。それが、フェラン・アリニョ、ニコラウ・カサウス、そしてジョセップ・リュイス・ヌニェスだった。アリニョは、バルサ・アスレティックの会長であり、多くの候補者に継続路線と見られていた。モンタル自身、ひいきの候補者はいないと公言していた。

その一方で、カサウスはもっともベテランであり、40年代からいるバルセロナでのベテランとして、とりわけ、ペニャ(公式サポータークラブ)に知られていた。最後にヌニェスは、建築業界の起業家として名前が知られており、改革派のメッセージを送っていた。そして、5月6 日、投票権のあるソシオは当時、 53.643人おり、そのうちの48,6%にあたる26.477人が投票を行なった。 

ヌニェスは、接戦となったこの選挙を制した。票の内訳は、ヌニェスが10.352票、アリニョが 9.527票、カサウスが 6.202票であり、カサウスは、副会長の座を引き受けることになった。6月30日に新たなフロントが発足し、その後、 2000年まで続くことになるヌニェス時代が始まった。

Força Barça
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