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カンプノウでの最後の声となった時のマネル・ビック(4月17日のバルサ-バレンシア戦) / GERMÁN PARGA-FCB

バルセロニズムは、FCバルセロナのスタジアムで、60年間に渡り、その声となってきたマネル・ビックの逝去を受けて、三日間の喪に伏す。スタジアムに訪れるファンにとって、必要不可欠な声だったマネル・ビックは、29日、金曜日に78歳で逝去した。

1938年3月12日、バルセロナに生まれたマネル・ビック・サンチェスがバルサのソシオになったのは、1953年5月7日、15歳の時だった。テクスタイル産業に従事し、生計を立ててきたものの、常にFCバルセロナへのファンとしての愛情が、人生の主軸にあり、また、ラジオアナウンサーとして生業をたてていくのが夢だった。ラジオアナウンサーになる夢は、叶わなかったが、ラジオ・オスピタレットの番組"La Veu de Catalunya"(カタルーニャの声)で、バルサの試合を報じる機会が訪れた。後、1958年以来、彼の名前は、バルサの歴史に刻まれることになる。

ラスコルツのスタジアムでの最初

1958年9月10日、ラス・コルツのスタジアムでの夜だった。伝説的なフォワード、セサル・ロドリゲスが、バルサ対エルチェの試合で、讃えられる名誉を得た。そのハーフタイムに突然、古い拡声器を通して、セサルが受け取った贈り物について知らせる20代の若者の声が、スタジアムに響き渡った。その声の持ち主こそ、マネル・ビックであり、当時のクラブ人事を担当していたリカルド・コンバスの依頼を受けて、行なったのだった。これが好評を博したため、コンバスは、その時から、カンプノウにやってきたファンへようこそと迎える声を提供することにしたのだった。 

この声が響かなかったことは、たった4回しかなかった。手術を受けた時と、娘の結婚式、そして、最近のスポルティング戦だった。マネル・ビックは、尊敬、教育的配慮、責任感に基づく独自のコミュニケーションを生み出した。彼の声は、ラインアップ、交代、サービスを伝えるのに響いたが、また、1分間の黙祷を捧げる役割も担っていた。

カタルニャ語の守り手

法的な命令により、ビックは、カンプノウでの試合で長期間に渡り、スペイン語で挨拶を行ない続けたが、1972年9月3日に、カンプノウの拡声器を通してカタルーニャ語で声をかけた。過去になかったその事態は、バルサ−デポルティーボ戦でおきた。 "S’ha perdut un nen. Es troba a la porta principal de Tribuna" ("子どもが迷子になっています。トリビューン席の中央扉にいます")という朗々とした声が響いた。その際、不幸なことにVIP席に政府完了のトマス・ガリカノ・ゴニがいて、不快感を覚え、再び、カタルーニャ語がスタジアムに響いたのは、1975年8月26日になった。2012年9月2日、カンプノウでのカタルーニャ語が40年目を迎える前に、バルサ-バレンシア戦が行なわれたが、その試合前にマネル・ビックは、拡声器を通じて "És un honor per a mi, després de 40 anys, continuar parlant la meva llengua, la nostra llengua.” ("私にとって、40年後も私の言語、私達の言語を話し続けることができるのは、名誉なことです")とその思いを伝えた。

4年前、2008年10月25日、バルサ−アルメリア戦の後、FCバルセロナは、マネル・ビックがスタジアムで50年間、従事してきたことを記念し、表彰した。3月12日、バルサ-ヘタフェ戦の前には、バルサのフロントにより、試合の後に表彰された。サプライズで讃えられたそれは、マネル・ビックの78歳の誕生日を祝うものだった。冥福を祈ります。

ドキュメンタリー 'La Voz del Barça',  2015年に発表:


Manel Vich, the voice of Barça | Manel Vich, la... por fcbarcelona

三日間の服喪

FCバルセロナは、マネル・ビックの逝去を受けて、公式に3日間の喪に服すことを発表する。週末、クラブの全チームは、1分間の黙祷を捧げ、喪章をつけて試合を行なう。 

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