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過去と現在、ベナブレス、シュスター、メッシ、クバラ

今日、2015年10月21日は、は映画界にとって記念すべき日だ。マイケル・J・フォックス主演の映画、バック・トゥ・ザ・フューチャーが、空を飛ぶ自動車や空中遊泳できるスケボー、オートマチックウェアなどと共に、この世に誕生した日なのだ。その当時、FCバルセロナが何をしていたのかを映画の日付を追って、見てみるのも一興ではないだろうか。

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映画バック・トゥ・ザ・フューチャーでは ‘現在’だった1985年10月、まだ、サッカー革命はアメリカには起きておらず、コミュニケーションテクノロジーも発達していなかった。その年のヒル・バレイでバルサに関心を持つことはまず、不可能だった。当時は試合をカバーするためのテレビや新聞もなく、当然、インターネットもなく、その様子を知るのは不可能だった。 イギリスでは、状況は異なっていた。その時まで、イギリスは海外リーグで起きていることを全く無視していたが、いきなり、FCバルセロナへの関心が目覚めた。それは、テリー・ベナブレスのおかげだった。彼の最初のバルサでのシーズンは、輝かしいものであり、1974年以来あったリーグにおいて、最初の優勝をもたらすことになった。とはいえ、試合を追うことは、まだ、未来のことであった。‘エル・テル’が翌日、カディスと対戦する前日に行なった記者会見には、6人の記者しかいなかった。バルサは順位表で11位であり、その時、最も話題になったのは、チームの最多得点王、スティーブ・アーキバルドの負傷欠場だった。

現在のバルサと違い、ベナブレスのチームは、GKのウルッティ、そしてヘラルド、ミゲリ、フリオ・アルベルトといったメンバーと共に、その強固なディフェンスで有名だった。チームのスターは、ベルナン・シュスターであり、カディスの前に決めた唯一のゴールをマークし、バルサに勝利をもたらした。

国内リーグよりも、カタルーニャのメディアは、バルサの11年ぶりの欧州杯初参戦を気にしていた。敵地でスパルタ・デ・プラガを破った後、バルサはFCポルトとの対戦を準備していた。そのシーズン、バルサは決勝まで行くことになるが、PK戦の末、ステアウア・ブカレストの前に敗れた。未だに多くのバルサファンにとって、悔いの残る思い出だ。

欧州杯決勝での負け試合にも関わらず、バルサはリーグ戦で2位のポジションを取り戻し、ウゴ・サンチェスのレアルマドリードと勝ち点9点差だった。この年、バルサは、欧州杯の黒星だけでなく、リーグ優勝、国王杯の決勝でもサラゴサを前に負けることになった。だが、このリーグカップが消失する前に、最後の大会では制覇することができた。  

195511月5日

マーティが1985年に戻ってくるために戦っていた時、自分の父親に恋しなければならないのに、自分に愛情を傾けようとする母親からの愛情を必死にはねのけようとしていた。そのアトランティック海の反対側で、FCバルセロナは、8節を超えた状態で首位だったが、バジャドリードで初黒星(0-1)を喫した。マーティがデローレンに到着した1955年、バルサはセビージャを前に3-1の重要な勝利をあげていた。

最も興味深いことに、スポーツ紙の見出しは、サッカーではなかった。スペインのガリアナ・ディアス紙は、ライト級でヨーロッパチャンピオンが生まれたことを暑かっていた。スポーツ記者は、セビージャでの試合よりも、ボクサーの意見に興味があったのだ!

エドゥアルト・マンチョン (2)と偉大なラディスラオ・クバラとGKアントニ・ラマジェッツそして、将来、バロンドールを獲得することになるルイス・スアレスが攻撃にいた。 バルサは、いまだにラス・コルツで試合を行なっていたが、その当時、既にカンプノウの建設が始まっていた。カンプノウができあがるまで、2年を残しており、最初の試合が行なわれたのは、1957年9月だった。

1955/56年、バルサは10試合連続で勝利をあげ、その記録は 2005年まで破られることはなかった。にもかかわらず、リーグ優勝を逃し、その年はアスレティック・ビルバオが1点差でチャンピオンになった。バルサは、フェリアス杯の初めてのアドベンチャーに乗り出すところであり、その大会は4年続いたが、バルサが11人のロンドン出身の選手でチームを作り上げた1958年まで、最初のタイトルがもたらされることはなかった。

1885年9月2日

マーティがブフォード・タネンと中東で戦っていた時、FCバルセロナは何をしていただろうか?何もしていなかったのだ。なぜなら、クラブはまだ、存在すらしていなかったのだから!サッカーは、イギリスではビッグビジネスだったが、スペインではまだ、その人気は広まることはなかった。その数年後、レクレアティーボ・デ・ウエルバが生まれることになる。このクラブが、スペインレベルで初めての公式クラブと考えられている。

バルセロナでは、アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアで最初の一石が積まれたところであり、サッカーは、小さな外国人グループで作られたチームがあるのみだった。1875年、La Linterna de Gracia (グラシアの文学)に書かれたイギリス人の手紙の中に、‘受け入れられるレベルでボールを扱い、午後の大半を過ごした’との記述が見られる。また、「先日の火曜日に、若い一人が暴言をはき、手を出した。多くの服が地面に打ち捨てられ、殆どTシャツとパンツのみでプレーしていた」と不満げに書かれている。イギリス人が怒ったのも、もっともだった。

1892年、イギリス人は、都市周辺のグラウンドで、組織立った試合を始めた。だが、ハンス・ガンペルという名のスイス人がもっと公式なものを作り上げた1899年に、ようやくフットボール・クラブ・バルセロナが設立された。

一体、どれくらい、多くの物事が変わったことか。いや、変わっていないものが一つだけ、ある。サグラダ・ファミリアは、未だに建設中だ!

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