「クラブ以上の存在」というスローガンは誰がいつ作ったのでしょうか。明確な記録が残っています。 ナルシス・デ・カレラスが1968年1月に行った会長就任スピーチで、初めてこの言葉を使ってカタルーニャにおけるFCバルセロナの社会的重要性を語ったのです。 また、その後1973年に、会長再選を目指したアグスティ・モンタル・イ・コスタが、選挙キャンペーンの標語に採用しました。 「バルサはフットボールクラブ以上の存在」が選挙戦を盛り上げるスローガンとして用いられましたが、最終的に会長となったのは、ルイス・カサクベルタでした。

鍵を握る人物、ガンペール

一方で「クラブ以上の存在」という考え方のルーツは、そのはるか以前にさかのぼります。 これは、クラブの創設者ジョアン・ガンペールが初めて会長を務めた1908年に生まれた発想でした。 ガンペールがクラブ会長だった時期に、波乱含みの集会でクラブ解散を回避したときのことは、詳しい記録が残っています。 ガンペールは当時、他にもさまざまな偉業を成し遂げていますが、クラブを閉鎖の危機から救おうとしたその姿勢が何よりも大きな評価を受けています。 あの有名な1908年12月2日、退会者が相次いだことに対してガンペールが立ち上がり、「バルセロナに終わりなどないし、終わらせてはならない。 誰もやろうとしないなら、私が全責任を負ってクラブの将来を支える」と言いました。

クラブ創設者のガンペールは、消滅の危機からクラブを救うことになるのですが、 クラブの将来を考えたとき、重要なのはむしろ運営方法でした。 ガンペールは、スポーツを楽しむというクラブ創設の当初の目的に、カタルーニャという国に積極的に貢献し支持するクラブとなることをさらに加えたのです。 そのため、積極的にカタルーニャを支持する政治組織にアプローチして、「連邦の自治」の支持やオリンピックのバルセロナ招致にもまして、ためらうことなくカタルーニャのアイデンティティと主権を守ることを表明しました。

処刑された会長ジョセップ・スニョールが共和制時代に策定した「スポーツとシチズンシップ」プログラムや、アグスティ・モンタル会長がFCバルセロナを率いて1977年の自治憲章に向けた運動を支持し、亡命先から復帰した州政府知事ジョセップ・タラデーリャスを帰国からわずか数日後にカンプノウへ招待したことなどは、「クラブ以上の存在」となる考え方を実践したほんの一例にすぎません。

クラブ憲章への明記

1908年(クラブ再設立の年とも言えます)にガンペールがFCバルセロナに注入したこのスピリットは今も健在で、現在のクラブ憲章にも謳われています。 クラブの役割を定めた第4条には、第2の目標は「相補的に、クラブ会員や市民、カタルーニャに対する忠誠と奉仕という不変の伝統の成果としてクラブが果たしている、大衆を代表し投影する役割を継続するために、十分かつ必要な社会、文化、芸術、科学、レクリエーションなどに関連する活動の促進を図り、参加することである」と明記されています。

スペイン全土でも「クラブ以上の存在」

スペインの他の地域に住んでいる人々にとっても、正反対とは言わずとも、さまざまな理由でFCバルセロナは「クラブ以上の存在」です。 その出発点は、カタルーニャの場合は、理事たちの意図的な決断、わかりやすく言えば会長ジョアン・ガンペールの決定でしたが、スペインではこのムーブメントは大衆の中から起こったのです。 バルサの民主的権利と自由の守り手としての役割を評価してサポーターとなったのは、知識階級と左翼政治家たちでした。

このムーブメントはスペイン市民戦争とフランコ政権の時代にピークに達します。 皮肉にも共和国大使のように迎えられたアメリカ遠征。そして、1951年の市電ストライキではバルセロナファンがこれを支持し、あの土砂降りの雨の日曜日にサンタンデールに2-1で勝利した後、レス・コルツ・スタジアムを離れるファンたちが市電に乗ろうとしなかった理由をフランコ主義当局者が理解できず驚いたことなど、とりわけ痛切なエピソードがいくつも残されています。 このような出来事にこそ、多数の進歩的なスペイン人にとって、FCバルセロナが単にカタルーニャを代表するだけではない、はるかに大きな存在であることがよく表れているのです。

「クラブ以上の存在」がスペインの他の地方に広がった理由の大部分はフランコ独裁体制にあります。 しかし、それ以前にもその萌芽はありました。 スペインの知識人たちの中には、すでに1920年代にFCバルセロナに言及している人がいました。詩人ラファエル・アルベルティの「プラトコへの頌歌」がその好例です。 また、FCバルセロナの本来の影響力がそれをはるかに超えるまでになった過程を理解する上で重要な人物の1人である、ジョセップ・サミティエールと接触した人々もいます。